MONOCHROME-モノクローム寫眞「サハリンで思い浮かぶもの」中川善博作品
稚内在住の中川善博さんは、2017年4月から2019年3月まで、サハリンに在住していました。その間、こんなに日本から近いにも関わらず、多くの日本人にとって未知なる島の姿を撮り続けていました。
ウラジオストクチャンネル同様、ハバロフスクチャンネルも、昨今の状況では、以前のように頻繁に更新することは難しいのですが、中川さんが撮りためた膨大な作品はとても貴重なものです。
今回はサハリン編の初回ということで、中川さんが「サハリン」と言われて思い浮かべる写真を選んでいただきました。リンクをクリックすると、中川さんのブログで写真を解説しています。
サハリン州郷土博物館とチェーホフセンター:グラフィティー『サハリンの旅』から…(2018.07.29)
<王子製紙豊原工場>の「製薬塔」遺構(2018.11.18)
“Три Брата”(トリ ブラター)=<三兄弟>の岩を望む:アレクサンドロフスク・サハリンスキー(2017.09.23)
ジョンキェル岬の灯台を望む:アレクサンドロフスク・サハリンスキー(2017.09.23)
『サハリン島』の事績を伝えるモニュメント(2019.10.24)
“ブハンカ”の在る風景:吹雪のレーニン広場…(2019.03.27)
「今季最後…」の輝きを見せる“ヨールカ”と月と…:レーニン広場(2019.01.21)
<Absolute Jazz ‘Quintet’>のライヴ(2017.10.26)
「近くて遠い」という言い方が在ると思う。
一般的には「物理的には近いが、心理的には遠い」という状態を示すようである。
稚内の地で「サハリン」と言えば「近くて遠い」という言い方が出て来るように思う。
「条件が良ければ」ということにはなるものの、稚内の海岸からサハリンの島影は「視える」のだから「物理的に近い」のは間違いない。が「心理的」ということになると、少しよく判らない。
所謂「樺太時代」という時期が在り、稚内は「国内各地と樺太とを往来する場合の中継地点」であった。そういう意味で「直ぐ隣」とか「一寸だけ先」という心情が在る。
しかし、1945年以降は自由に往来出来るでもなくなった。故に「物理的な距離と無関係に遠い」というように感じる。そういう「遠い」という心情を引き摺りながらも、1990年代以降、「航路の復活」と稚内では呼んでいたが、サハリンとの往来も叶うようになった。しかし、様々な事情が在って、また稚内からは簡単に往来し悪くなってしまっている。
稚内の地からサハリンは、客観的には「遠い」ということになってしまった。だから改めてサハリンに関して「近くて遠い」という表現が思い浮かぶ。同時にその表現が意味する「物理的には近いが、心理的には遠い」ということの「心理的に遠い」には、個人的には少し得心し悪い面も在る。
1905年から1945年を指す所謂「樺太時代」は知られている他方、「その以前」は広く知られていないかもしれない。1875年から1905年、サハリンは帝政ロシアの治世の下に在った。
サハリンの現地で「古い時代の…」ということになると、「樺太時代」の以前、帝政期の頃のことや、日ロ間でサハリンまたは樺太の主権が確定していなかった1850年代の事柄になる。
「ロシアの作家」とでも言った時に名前が挙がる何人かにアントン・チェーホフ(1860-1904)が在ると思う。このチェーホフは1890年にサハリンを実際に訪れていて『サハリン島』という本を著している。サハリンでは「郷土に所縁の大作家」として、チェーホフは凄く敬愛されている。
このチェーホフより以前の1850年代に関しては、極東の様々なことを紹介する功績が在ったネヴェリスコイや、その麾下でサハリン島南部を詳細に調査したルダノフスキーの事績が現地では知られているようだ。
そういう旧いことが何となく思い浮かぶのだが、近年のサハリンは、資源開発に関連する好い経済循環が生じて豊かな消費生活を謳歌するような地域になっていた。嘗ては「サハリンから他地域へ出掛けて何かの催しに参加」という感であったものが、近年では「サハリンで開催する催しに各地の人達が集まる」というような状態にもなっている。
実に色々な要素が在るサハリンである。そして余りにも想い出が多い地である。
(中川善博)
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