サハリン南西沖のモネロンは海鳥とアシカのコロニー&ダイビングの島

サハリン南西沖のモネロンは海鳥とアシカのコロニー&ダイビングの島
サハリン

サハリン沖南西部の約56㎞離れた海洋に、モネロン島(Остров Монерон)と呼ばれる離島があります。この島に行くには、サハリン西岸の港町ネヴェリスク(Невельск)港から約76kmの距離を船で向かいます。

サハリン沖南西部の約56㎞離れた場所に、モネロン島(Остров Монерон)と呼ばれる離島があります

地図でみるとわかるように、晴れた日には宗谷岬を含む稚内市内や利尻島・礼文島からも見ることができるほどの近さです。

晴れた日には宗谷岬を含む稚内市内や利尻島・礼文島からも見ることができるほどの近さ

この島は約30平方キロメートルの大きさで、常時住人はいないことから、海鳥やアシカのコロニーとなっています。夏には透明度の高い海でダイビングが楽しめます。2006年にモネロン島は海洋国立公園に指定され、観光客が滞在できる宿泊施設が建設されたからです。

この島は約30平方キロメートルの大きさで、夏には透明度の高い海でダイビングが楽しめます
2006年にモネロン島は海洋国立公園に指定され、観光客が滞在できる宿泊施設が建設されました

どんな島なのか。サハリン観光局が制作したプロモーションビデオをまずご覧ください。

島には新しい港湾施設や木造コテージのホテル、ロシア正教会などが建設されています。

新しく建設された港湾施設や木造コテージのホテル
島をトレッキングするための遊歩道も建設されています。

島をトレッキングするための遊歩道も建設されています。

島をトレッキングするための遊歩道も建設されています

海岸線に続く岩肌は荒涼としていて、いかにも無人島という世界です。

いかにも無人島という世界
海岸線に続く岩肌は荒涼としています。海面から突出した岩
海岸線に続く岩肌は荒涼としています。ゴツゴツとした岩肌。
屋内から海岸線に続く荒涼とした岩肌を眺める

急な崖や岩場の多いという条件は、海鳥の避難所として最適です。温かい対馬海流のおかげで、北緯46度という稚内より北方に位置しているにもかかわらず、島周辺の海域に豊富な海洋生物が棲息しています。

急な崖や岩場の多いという条件は、海鳥の避難所として最適です
温かい対馬海流のおかげで、島周辺の海域に豊富な海洋生物の棲息をもたらしています

もともとこの島はアイヌの住民によって「トドモシリ(アシカの島)」と呼ばれていました。

この島はアイヌの住民によって「トドモシリ(アシカの島)」と呼ばれていました

モネロン島という名は、18世紀に活躍したフランスの航海士で探検家のラ・ペルーズが宗谷海峡を訪れたとき、彼の船のチーフエンジニアであるポール・メロー・モネロンにちなんで名づけられました。

ラ・ペルーズが当時、蝦夷(北海道)や樺太に来たのは1787年7月でした。彼はユーラシアと樺太の間が陸続きなのかどうか、現在は間宮海峡(タタール海峡)と呼ばれる海峡を調査するために来ました。海峡の手前まで船を進ませたものの、水深がきわめて浅いことを島民らに聞かされ、通行を断念しました。

実際、間宮海峡の最狭部の幅は約7.3km、深さは最浅部で約8m。冬の間は部分的に凍結します。船の航行が危ぶまれるのは仕方がなかったといえるでしょう。

樺太が島であることを確認したのは、1808年に江戸幕府天文方の高橋景保や松田伝十郎、間宮林蔵らの探検の成果でした。翌1809年、間宮は海峡を渡って周辺地域を調査しています。

樺太が島であることを確認したのは、1808年に江戸幕府天文方の間宮林蔵らの探検の成果でした

その後、日ロ両国による国境画定があり、さらに日露戦争後、南樺太が日本領土になって、この島は「海馬島(かいばとう、とどじま)」と呼ばれるようになりました。現在は無人島ですが、日本時代には集落が存在し、本斗郡海馬村に属していました。

南樺太が日本領土になって、この島は「海馬島(かいばとう、とどじま)」と呼ばれるようになりました

海馬島には、島内にのみ見られる種を含む380種類の植物が自生し、海馬島特殊植物群落地帯として樺太庁の天然記念物に指定されていました。

昭和16(1941)年には島の751人の居住者がいたそうです。1945年8月、ソ連軍によって島は占領されますが、島民はすでに島を脱出していました。

この知られざる北方の離島にも、さまざまな近代の歴史の物語があります。いまではアシカと海鳥がのんびり暮らすこの島を一度、訪ねてみたいです。

ピックアップ

関連記事

  • コメント ( 0 )

  • トラックバックは利用できません。

  1. この記事へのコメントはありません。